「異なる者」の「顔」

先日「分身ロボットカフェ」という試みがネットやTVで紹介されていた。

体に不自由があり思うように動けない方々が、遠隔操作のロボット「orihime」を通じて「働く場」や「人とのコミュニケーションの場」を獲得出来るという素晴らしい試みで、テクノロジーが直接的に人の幸せに貢献出来る素晴らしいアプローチだなと感心した。

一般的な「人に寄り添うロボット」は、aiboにしろpepperにしろ先日発表されたばかりのLOVOTにせよ、それらは何らかのAIを搭載した「◯◯のような『物』」であるのに対してorihimeの本質は「人」であり、「肉体の拡張」ともいえる方向性が今までの「ロボット」とは異なるものだと思う。



ただ一つ残念だなと感じたのは、「人に似せた顔のレプリカ」を搭載していることだ。

その「顔」が、より親しみやすい印象を得るために必要なものであることは分かる。

しかしその顔にある目は目ではない。

orihimeもaibo等のロボットも、ロボットとしての本当の目は額や頭頂部などにあり「顔にある目」は何も見ていない。

「目」が実際の目ではないので、対面する人の側がロボットの「目」を見た時、ロボットはその視線を受け止めることが出来ない。
ロボットを操作する側に人がいるなら、その人も対面する人の視線を受け止められない。

会話している相手が、自分のTシャツに書かれたキャラクターに話しかけてる状況が
これに近いかもしれない。

そして何より、これは

ロボットの側が
人(や生物)の『振り』をすることを
強いられている状況

に他ならない。

そしてその原因は「人が持つロボットへの違和感」にある。


ロボットに「人に寄り添うこと」を望むなら、人の側も「ロボットに寄り添うこと」を心がけないといけないのではないか?

飾りの「目」など持たせずに、そのロボットが持つ本当の目(カメラ等)を

「これがこのロボットの目です」

と紹介し、人の側もその「ロボットの目」を見てコミュニケーションを取る。


「異なる者」の距離を縮めるためには「理解」が必要で、それは「異なる者」双方に必要なものなのだと思う。

人種であれ性別であれロボットであれ、
それは同じことだと思うのだ。



<参考>

ブリアレオス・ヘカトンケイレス

士郎正宗氏のコミック「アップルシード」に登場するサイボーグ。

ロボットではないが、彼の目は下図のように8つある。

「親しみやすく感じてもらうための目のような飾り」は持っていない。

これでいいと思うんだよね。

思ったことなど置いてみる

隻(seki)といいます。 上級システムアドミニストレータ。バイク好き。写真好き。 バイクはYAMAHA TRX850。 カメラはOLYMPUS E-M5

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