「信用する」ということ

「人のことを信用出来ない」という人は、けっこう多いのではないかと思う。

自分自身もその一人で、裏切られたりしたら嫌だし、腹も立つし、何より悲しい。


 「この人は信用出来るだろうか?」

 「信用しても大丈夫な人なのだろうか?」


どんなに慎重になっても、結局のところ信用出来るかどうかは相手次第なので、
どうすることも出来ない。

しかし、出来ることなら信用したい。


ある時、このジレンマを何とか出来ないものかと考えていて、
割りとイケるんじゃないかという考え方に至った。


「信用する」を「期待する」に置き換える。

 「この人は信用出来るだろうか? ⇒ この人に期待してもいいだろうか?」

 「信用しても大丈夫な人なのだろうか? ⇒ 期待しても大丈夫な人なのだろうか?」


一見似ているが、大きな違いがある。

「期待する」のは「自分」。

つまり「信用出来るかどうかの根拠のありか」を、相手ではなく自分に置くのだ。

事の原因を自分の中に持つ。

相手をどのような人と見るか、「それを見極める自分の力」に全ての原因を置くのだ。


原因が自分の中にあるのだから、結果も自分のもの。

相手のせいじゃない。

「決めるのは、自分。」

この結果、「相手に傷つけられる」という状況がなくなる。


例)約束したのに!信じてたのに裏切られた!
  ⇒ 私はこの人が約束を守ってくれる人だと思い期待したが、
    それは自分の判断ミスだった。


要は、

自分がどうするのかという「主体性」の問題

として捉えるのである。

この考え方、今のところ自分の中ではいい感じに回っている。

機会があれば、お試しを。

思ったことなど置いてみる

隻(seki)といいます。 上級システムアドミニストレータ。バイク好き。写真好き。 バイクはYAMAHA TRX850。 カメラはOLYMPUS E-M5

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